* はじめに

別に死にかけている訳でもないし、不治の病にかかっている訳でもない。いったって健康なのであしからず。仕事に不満もないし、人間関係も比較的良好で、精神的にも病んでいる訳ではない、と一応自覚はしている。目標や夢もあり、日々の生活にやる気もある。コンピュータの仕事をずっとしているせいで視力はだいぶ下がり、目の疲れ、肩こりはだいぶひどいが、ちょっと休んで温泉にでもつかれば疲れは吹っ飛ぶし、二十歳のころに破裂した腎臓も元気に復活している様子でお酒も普通に飲んでいるし、靭帯をきった左膝も半月板を損傷した右膝も特に無理な運動をしなければ、空手でもバスケットでも普通にできている。アメリカで初体験した立てないほどの腰痛も気をつけていれば、特に日頃の生活に問題はない。中年の健康人がこんなものを長々書くこと自体が精神的に病んでいるといわれればそれまでですが。とはいっても、相続するような大金がある訳でもなし、むしろ奨学金の借金や家のローンがあるくらいで、死んだら全財産を譲る、なんていわれても返って迷惑でしょうから、そういう話でもない。一応念のため断っておくが、何か特別な宗教の信者になった訳でもない。キリスト教のバイブルを一ページも開いたことはないがクリスマスは祝うし、特に神の存在を強く信じている訳でもないが正月は神社に行き神頼みをし、葬儀は仏式で行なって人は死んだら仏様になるのかと漠然と思っているいわゆる典型的なマルチ宗教の日本人である。以前から何か遺言を書いておきたいとは思っていた。それを特に意識したのは大学院生のときの先輩と姉の突然の死があってからだと思う。

人間だれしも今日は健康でもふと何かの拍子に死んでしまうということは少なくない。明日階段から滑って落ちて頭を打って死ぬかもしれないし、交通事故、心筋梗塞、脳溢血、はたまた大地震や津波や火山、運転中にトンネルの天井が落ちてきて死ぬかもしれない。確率的に言ったらジャンボ宝くじが二度続けて一等当たるくらいの「まさかぁ自分が」なんてことが起きて「あっ」と思ったときにはすでに死んでいる、といことも世の中ままあるでしょう。二十歳のときに若葉台裏からニューレーンに向かう道で腎臓破裂の交通事故を起こしたときも目の前にダンプが見えて「あっ」と思ったときにはすでにぶつかっていた。あのとき打ち所が悪ければ死んでいても不思議ではなかったと思う。大半の健康な人は自分は老衰で死ぬと信じていると思うし、自分もそうだと信じている、と思う。だから、普通健康な人は遺言を書こうなんて思わないと思うが、こういうものは健康なうちに書いておいた方がいい、と思うのは突然の死がありうるから。意識不明になってから「さあ、どんな遺書を書こうか」なんて思えないし、「ああもしかしたらもうすぐ死ぬのかな」と思ったときにはゆっくり自分の死後について考える暇もきっとないでしょう。祖父も祖母もガンでなくなっているし、日本人の三人に一人が生涯のうちにガンになるらしいから、いざガンになったときにおろおろしないように心の準備だけはしておきたい、と思う。最近はエンティングノートなんてのが流行っているらしい?けれども、まだ病気にはなっていないだけでコンセプトとしてはそれに近いものかもしれない。いままで書きたいと思いつつできなかったのは忙しすぎて日常の生活に追われていたから、というのがあるのかもしれない。今も日頃の仕事や生活に決して余裕があるとは言えないが、それでもだいぶ落ち着いてきた感じはする。人生80年とするとまあおよそその半分にもなるわけで、自叙伝とは言わないまでもこれを機会に自分の半生を振り返ってみるのも、今後の自分の人生にとって悪くはない、とも思う。死んだ後のことはどうでもいい、と考えていた時期もあったけど、それは自分だけのことを考えていたから、というよりもむしろ、自分のことを深く考えていなかったからだ、と今は思う。つまり、この「遺言」というのは「今現在の自分」の最後の言葉、という意味で、特定の誰かに向けてのものというよりは、むしろ、「未来の自分」宛のメッセージ、という意味合いが強いかもしれない。あとからあのときはこう考えていたのか、と自分の成長(衰退?)を確認することもできるかもしれない。たしかアンジェラアキさんの歌でこれに似たような「拝啓なんとか」という歌があった気がする。あれはもう少し若者向けの歌詞だった気がするけれど。まあ、なんてナルシーな奴だと、思われても致し方ないところもあるが、たいていの科学者、研究者なんて、自覚していないだけで多かれ少なかれある程度ナルシストなんじゃないかと私はうすうす思っている

「ナルシシズム(narcissism)」とは日本語では「自己愛」と訳されるが、しかし、はたして「自己(self)」とはなんなのか。「自分は自分でしょ」と言う人もいるかもしれないが、当たり前のように思っていてもよくよく考えてみるとなんだかよくわからないモノ?だというのに誰しもなんとなく気がつく時期が来る。何をもってして「自分」たり得るのか。どこからどこまでが「自分」なのか。今確かにああだこうだと考えながら文字をタイプしているのはまぎれもなく「自分」であるのは確かに確かなのだけれども、それとは別に今この身体(と脳?)を使って、つまりこの脳から電気信号を送って目を動かして、指を動かして、キーボードをタイプしながら、文章を書きながら「自分とはなんなんだー」と考えている別の「自分」(の意識?)が存在しているのに気がつく。もっと言えば「自分とはなんなんだー」と考えているその「自分」に気がついているまた別の「自分」(の意識)がたしかにいる(気がする)。ただ、どれ(どの意識)も確かに「自分」であるのは間違いない(気はする)。別だと感じているのはただの錯覚でそういった意識や錯覚も全部含めて「自分」なのかもしれない。よく少女と老婆の錯視の絵が紹介されることがあるが、同時に少女と老婆を見ることはできないのと同じ様に、その絵を少女と見るか老婆と見るかは認識の違い(認識する側(の意識?)の問題)だけで結局そこにはその絵が変わらずあるだけなのだから。その少女だか老婆だかわからないけど確かにそこに存在しているように思えるモノがいわゆるデカルトさんが言った「我思う故に我あり」の「我」さん?、少佐の言うところの「ゴースト」さん?なのかもしれない。「自分」なんてものに意識を集中しなければ大抵この身体とその(それらの)意識はシンクロしていて、別々のモノだというような感覚はないのだけれども、いざ「自分」というモノ?に注意を向けようとするとこの「自分」の(意識?感覚?の)分離が生じる。昔から「自分とは何か」と問い続けられていてその時代時代でいろいろな回答が出されてきてはいるが、そんなリフレクションする問題を「自分」で考えることを通して実は逆説的に「自分以外」の方々(つまり「あなた」)へのメッセージに(暗に)できたら、という願いもある。それがどういう意味かは読み終えたときにはわかるように書きたいとは思っている。

しかし、遺言なんて聞くとネガティブに聞こえるが、生と死はいつも紙一重で隣り合っているとも思う。死を意識するから生きたい、とも思えるし、生きている間に精一杯やろう、という気もわいてくるし、姉や先輩の分までいろいろやっておきたいとも思う。よく風邪を引いたときに「ああ、なんて健康でいたときって幸せだったんだろう」と思うことがあるが、これも似たようなもので、病気の苦しさを知っているからこそ健康でいることの大事さがわかるし、健康に気を使う。健康でいるときにこそできることをやっておきたいと思う。現代の医療技術/科学技術では少なくとも私が生きている間には不老不死の妙薬はできそうもないのでどうしたって生きている時間は限られているし、人は誰しも死から逃れられないから、生の喜びを感じることができるのではなかろうか。スティーブさんがスタンフォード大学で行なった伝説スピーチにあるように「今日死ぬとして、今日は本当にするべきことをするか?」と問うことで自分にとって本当になすべきことが見えてくるように、「死」というもの、「死」という状態を考えることが逆に「生」とはどういうことか、「生きる」ということはどういうことか、ということを考えることにもつながっていると思う。ここで私が言っている「生きる」というのは単に呼吸して、食事して、成長して、代謝してうんうん、というような生物学的な意味ではない。かといって神とか愛とか魂とかそういう宗教的霊的な意味でもない。

小学生のころの「自分」からは想像できない「自分」が今ここにいる。宿題を一個もやらずにファミコンとサッカーに明け暮れていた小僧がまさか、スイスで仕事をしてこんな健康なうちから遺言を書くようになっているとは想像すらしていなかったに違いない。今では笑い話にしかならないが、当時「宿題をやってこなかった人?」と先生に言われて毎度毎度自分一人だけ元気に手を挙げ続けていたらあるとき先生から「みんなも彼みたいに正直者になりなさい」と褒められたことすらある。確か三年生のときだったと思う。それからは自信を持って?!宿題を忘れることができたのを覚えている。そんな小僧が今は一応博士にもなってしまった。少ないながらも論文も出版できた。自分だけにしかできない能力もそれなりに身に付いたという自信もできた。英語もちょっと話せるようになったし、ドイツ語、イタリア語もカタコトで話せるようになりつつもある。1年以上住んだ場所は、神奈川、兵庫、石川、愛知、アメリカ/カリフォルニア、スイス/チューリッヒで、北海道、本州のメジャーな場所はだいたい訪れたことがあるし、アメリカも自動車で横断したし、スイスもいろいろ旅行したし、ヨーロッパの各地もいろいろと行ってきた。スイスには世界中からいろいろな人が集まるので、ほんとに世界中のいろいろな人と出会ってきた。腎臓破裂の大事故から復活もした。そういう意味では20年30年後の「自分」は(生きているとしたら)今から想像できない「自分」になっているに違いない。むしろ「今の自分」ではない今からは想像もできないくらいの全く別の「新しい自分」に成長できていることを期待したい。

だいぶ前置きが長くなったが、さて。

* もし明日死ぬとして

では、最後に言っておきたいことは何か。まず、家族父母兄弟友人知人、その他もろもろお世話になってまだ生きているなら全員に感謝の言葉は言いたいし、迷惑をかけてきた人でまだ生きているならその方々には全員に謝ってから死にたい。お世話にもなって、迷惑もかけたのに、すでに生きていない方々には残念ながらどうしたって何もできないので、死ぬまでただただ思いを馳せたい。お世話になった方々、本当にありがとう。迷惑をかけた方々、本当にごめんなさい。もう縁が切れてしまって社会的な大人の事情?!で多分一生会えないだろう方々にもこの感謝と謝罪の気持ちが世界を回り回っていつか届けば良いと願っている。特に自分を愛し、頼りにしてくれている妻には言いたいこと、言っておきたいこと、死んでからも言ってあげたいこと、など山ほどある。何を言っても、何の助けにもならないかもしれないが、せめて夫の死から立ち直り、その後幸せな人生を歩む手助けができる何かを残しておきたい。寂しがりやの妻のことだから、できるなら妻よりも先に死んで悲しい思いはさせたくない。子供にもお金以外に何か、その後の人生の糧になる何かを残してやりたい。もちろんできれば元気に長く生き続けたいとは思うので怪我や事故、健康にはこれからも気をつけていきたい。映画「P.S. I love you」のように私が死んだ後にメールが届くシステムがあると良いと思う。最近はいろいろそういうサービスをするサイトも増えて来たので、登録しておきたいと思う。一期一会とは本当によく言ったものでいつそれが最後になるか本当にわからないので、どんな時も別れ際にはいつも「今まで本当にありがとう」と心の中で思うことにしている。

* 次に言い残しておきたいこと

死ぬと怖いことは何か。一つは「自分」がなくなること、だと私は思う。しかし「自分がなくなる」とはいったいどういうことか。今まで一度も死んだことがないのでその後どうなるのか本当のところはわからないがこれまでの何人かの親しい人のいわゆる生命活動の停止状態を見てきて経験的に予想できることは、それ以前までしていたように、何かを考えたり、好きな人と楽しい会話をしたり、おいしいご飯を食べたり、とそういったことはできなくなりそうだというのはどうも確かそうではある。死の直前というのは感覚的にはきっと夜眠りにつく前の「あ〜ねむ〜い」というような感覚、もしくは二十歳の頃に交通事故のときのようにダンプにぶつかる直前の「あっ」というような感覚、あるいは腎臓破裂したときに病院でモルヒネを打ってもらって「すぅ〜」と意識が遠のいたあの瞬間の感覚に近いのだろうとは予想はしている。いずれにしても「あれ、もしかしてこれから死ぬのかな」と感じたときには、それ以後あれやこれやといろいろと考えたり、何やら準備をしたりする時間はなさそうであるだろうということは想像に難くない。せめてその瞬間は好きな人のそばでありたいとは思う。そして、その瞬間は何の前触れもなく突然やってくる可能性は後約35万時間以内に十分ありうるのではないか、という予感もある。

さて。ここで、こういう思考実験を考えてみてほしい。

もし「今の自分」の記憶と思考回路がどこかに保存できる装置とそれを再生できる装置(例えば完全に「今の自分」の思考を再現できる人工知能装置で、例えば親しい知人や友人が電話越しで話したときに、本当の私か人工知能装置かを判断できないくらいの機械、いわゆるチューリングテストにパスする機械でさらに生前の私の思考を完全に再現できる機械?)があるとしたら「死」に対する価値観が変わるか?

あるいは某機動隊の電脳化技術のようなものが実際に現実に使えるようになったとしたら「死」に対する価値観が変わるか?

あるいはシュワルツネッガーさん主演の「The Sixth Day」のように記憶もコピーできる「今の自分」のクローン人間が作成できるとしたら「死」に対する価値観が変わるか?

あるいは身体的に生命活動が停止した瞬間に脳を冷凍保存して、身体部分だけをクローン再生して脳を置き換える技術が確立して、生命活動を停止した直前までの記憶と20歳前後の身体能力をもって再生できるとしたら「死」に対する価値観が変わるか?

もちろん、そんなものは今の科学技術でできるとは思えないし(でも実際にそういう技術革新を将来期待して人体を冷凍保存しれくれる企業はあるらしい)、将来的にたとえできるとしても倫理的にいろいろ問題があるだろうというのは承知の上だが、もしこれらの質問に対して「変わる」と考えた人(つまりこういう技術革新によって「死」というものに対する見方が多少なりともどういう形であれ変わる、あるいは「自分がなくなること」を防げる、と考えた人)は「自分」というモノを「記憶」もしくは「思考」というもので(一部もしくは大部分を)特徴づけられるモノ、だと考えている節があるということだと言えるのではないかと思う。あるいは物理的には「脳」の大部分が「自分」というものを構成する大事な部分、だと考えている節があると言えるのではなかろうか。いやいやいやいや完全に再生できるとしても、もしくは完全な電脳ができるとしても、もしくは全く区別のできないクローンができたとしても、それはやはり本当(本来)の「自分」ではない、という人もいるかもしれないが、コピーされた側のクローン人間はやっぱり映画に出てくるシュワルツェネッガーさんのように今まで通り本当の「自分」だと信じてそれまでと同じ生活を続けるに違いないだろう、と私は思う。冷凍保存された脳をクローン再生した身体にすげ変えて再生した「自分」はすげ替える前の「自分」と同じだと感じてその後の人生を歩むのだろうとは思う。つまり、多かれ少なかれ、たいていの人は記憶や思考、経験、知識、意識、感情、能力の総体が自己(アイデンティティ)を構成する主要部分だと考えているのではなかろうか。ここらへんのお話は心理学ではいわゆる「自己同一性」とか「自我同一性」といったお話に関連しているだろうし、心の哲学の分野では「スワンプマン」「身体交換の議論」、最近では「どこでもドアの思考実験」といった有名な思考実験があるので、気になる方はサクッとパッとググッてみてほしい。主観と客観との関係(観測者/観測対象の関係、いわゆる観測問題の観点)から、自己認識を考える上では「五億年ボタンの思考実験」なんかも面白い。古典的には「シュレディンガーの猫の思考実験」が有名。

しかし、ここでもまた考えてみてほしい。

人の記憶なんてどんどん書き変わっているし、覚えていることもどんどん忘れている。今日は昨日と違う考えをもっている、なんてことは良くあるし、大人になれば子供のときと違う考え方をもつのは普通だし、脳細胞は死滅し続けていずれ思考力、記憶力も今はとは比べものにならないほど衰退するだろうというのは世の年配の方々を観察していれば想像に難くない。そうかと思えば、生まれつき備わっている能力は数知れず、生まれた後にも気がつけば話せたり、歩けたり、する能力が親や社会の支援で身に付いている。この身体では一日に何千何万の細胞が死滅と増殖を勝手に繰り返しているし、大腸菌やら口内菌やら知らないうちに勝手に人の身体に生態系を作っているし、口に食べ物を入れれば、勝手に栄養素に変えてもくれるし、心臓はだいたい365日一定の周期で動き続けているし、身体を一定温度に維持してくれている能力は大して苦労したわけでもなく勝手に身に付いている。今やGoogleで検索すればたいていのことは調べられる。「これは自分の考えだ!」と言ったって、先祖代々からの遺伝の影響か、社会の影響が反映されていることは免れられない。私だって論文を出版したがすべてがオリジナルな考えではない。盗作という意味ではないが、論文に登場するほとんどの知識はそれまでにどこかに登場してきている。ニュートンさんでもアインシュタインさんでもそれまでや周りの人々の影響や知識があってこそ、新しい考えに到達できたはず。

つまり、何が言いたいかというと

「自分」というものがある個人(ある個体)に属する「記憶」や「思考」をよりどころにして、あるいは遺伝情報や身体性をよりどころにして、ある程度特徴付けられるものだとしても「自分」と「自分以外」というのは完全に区別/分離できる訳ではなく、つまり私たちが「自分」だと信じている「モノ」は「他」だと信じている「モノ」から完全に独立したものではなく、多かれ少なかれ遺伝的/社会的、時間的/空間的、物理的/非物理的に複雑に様々な階層で相互作用して(相互依存して)構成されている「モノ」と考えるべきだというのが私の「自分」に対する考えで、親兄弟、友人知人、を含めて会ったことある人ない人、先祖代々の人々、人類につながる進化をしてきた生命の祖先や、日頃食べている植物や動物、生きるために欠かすことができない酸素を供給している草や木や、食物連鎖の構造を保っている生態系、その生態系を支えている地球環境、太陽系、宇宙をも「自分」を構成する一部だと私は考えている。言い換えれば「自分」と「自分を含む環境」は独立に切り離して考えることができない、と私は考えている(とするとある意味、「社会」を構成している一部である「自分」の一部がまた「社会」であるという自己言及構造になってしまっているのだが)。

この「考え」自体、いろいろな影響で構築されたもののはず。生まれてすぐ「オギャー」と泣いた瞬間に「ぉ、ふむ、自分とはこういうものか」などと思いついたわけではないし、かといって、父母がいなければ今この「私」自体存在していなかったわけだし、父母につながる生物進化や人間社会の発展がなければ、こういったことを考える認知能力さえ備わっていなかったに違いない。大学院で突然の死で他界した先輩の肉体はもうこの世にはないが、その先輩の生き方に私は多大な影響を受けてある意味180度人生観が変わった。アメリカに留学したり、スイスで生活しているのもその先輩の影響が少なからずあるのは確かなことで、その先輩の存在が私の考え方、生き方に影響を与えている。それは単なる「自分」の中の記憶にしかすぎないのかもしれないが、その記憶は先輩の存在なくして形成されなかったはずだし、先輩とのさまざまな関わり合いを通して形成されたもののはずで、はたまたそれが「精神」とか「心」とか「魂」とか呼べるものかどうかは知らないが、先輩の肉体でない何かが確かに「自分」の中には残っていると感じざるを得ない。そしてそれはスナップショットのような静的な思い出としてだけでなく、確かに今の「自分」と融合していて日々の「自分」の思考や行動に多かれ少なかれ影響を与えている。それらのことを考えれば、その先輩は私の(主観的世界の)中で今も「生きている」とも言えなくもない(気がしないでもない)。姉の分までできるだけいろいろな場所でいろいろな経験をしたい、と思いながら姉とのいろいろな経験が今の「自分」の一つの原動力になっていると感じているいうことは私の中で姉の一部が生きていると感じなくもない(気がしないでもない)。よく「死んでも心の中で生き続ける」なんて言われることがあるが、それはその人との思い出を大事にするとか、大事な人を失った悲しさ寂しさを癒すための単なる都合の良い考え方だとか、そういうことではなく、生前その人から受け継いだ何かが確かに今の「自分」の中にある、あるいはその人の影響で確かに今の「自分」が存在できている、ということを自覚しながら、まさに今のこの「自分」と正直に真剣に正面から向かい合いながら今この瞬間を一生懸命生きることなんじゃないかと最近私は思うようになってきた(気がしないでもない)。つまりは、生前のその人と当時の「自分」との関わり合いの経験すべてが今の「自分」の形成に必要なものであった、いや経験すべてがあってその結果今の「自分」が形成されているのだろう、というのが今の私の考えになっている。

これらのことはなにも先輩や姉に関してだけいえるわけではなく「あなた」にも同じことが言える、と私は思っている。そして、日々「自分」は「あなた」の存在によって過去の「自分」ではない現在の「自分」に変化している。「自分」のコアな部分が劇的に変化することはないのだけれども、少しずつ、でも確実に「あなた」の影響で「自分」は変化している、と私は感じている。成長している、と言えば聞こえはいいかもしれない。今日の「自分」はすでに昨日の「自分」ではなく、明日はまた新しい「自分」になる、とでも言えば少しはかっこ良く聞こえるかもしれない。別の言い方をすれば、「あなた」の存在なしに今の「自分」は存在し得ないし、逆に今の「自分」から「あなた」の存在を消し去ることもできない。極端な話、例えば、この文章を読んで「あなた」の「死」「生」「自分」に対する価値観が多少変化したり、何か考えをよぎらせたなら、私はあなたの中で「生きている」と言えなくもない(気がしないでもない)。ちなみに、「あなた」というのはこの文章を書いている私以外の誰かであることはもちろんのこと、この文章を書き終えて文章を読み返している未来の「自分」をも含んでいる。
(「あなた」の中の「私」の中には「あなた」が。。。とリフレクション(自己参照)できて、頭をこんがらがせることができるが、これもある意味正しいかもしれない。「あなた」の中の「私」を通してあなたは「あなた」(の一部)を見ることができるとも思う。つまり、例えばこの文章から「私」という人物をどういう人かと考えるのは「あなた」であるわけで、「あなた」の経験や体験、価値観や世界観、記憶や思考が「あなた」の考える「私」像に影響を与えているはず、なので「私」という人間をどう見るか、ということそのこと自体が「あなた」がどういう人であるか、ということを考えることにもつながっていると私は思うわけです。村上春樹さんも雑文集で似たようなことを書いている。例えばおいしい牡蠣フライの食べ方を通して「自分」が見えてくるように。私の興味の一つはこれを読んだ10年後20年後の「自分」はこのことを書いた過去の「自分」のことをどう思うのか。)

まあ、リフレクションの話はおいておくとして。こんな短い文章で私の記憶や思考や経験や知識や能力のすべてが表現され尽くされているとは到底思えないが、もし私を知っていると思っている人がこれを読んでくれたなら、例えば「そういえばあいつさ・・・」とでも「そうかスイスでがんばってるのか」とでも「なんか変なことを考える奴になっちまったな」とでも、良い噂でも悪い噂でも思い出すことで、そこで私が「あなた」と共に「生きている」ということになるんじゃなかろうか(という気がしないでもない)。たとえ私に会ったことがない人でも「そういえば、こんなことを書いている人がいたな」とでも「なんかへんなことを書いている人がいたな」とでもこの文章の一部を思い出すことがあれば、そこで私の一部が「生きている」ことになるんじゃないだろうか(という気がしないでもない)。たとえ意識的に思い出すことがなくても過去の私との関わり合いの影響であるいはこの文章を読んだ影響で今の「あなた」の思考/行動に変化が生じていれば、そこで私の一部が(多かれ少なかれ)「あなた」とともに「生きている」といえるのではないだろうか(という気がしないでもない)。デカルトさん風に言えば「あなた思うゆえに我あり」でしょうか。つまり「あなた」が私の存在を認識している、ということを私が認識できることで私は「自分」の客観的存在を信じることができる、ということです。逆に私が「あなた」の存在を信じているということを「あなた」が信じることで、「あなた」の客観的存在を「あなた」は信じることができるのではないか、と私は信じています。かのデカルトさんは「我思うゆえに我あり」と言ったそうだけど、仮に透明人間のようになって確かに考えたり見たりすることはできるけれど世界の何者とも相互作用できない存在になったとき、私は本当に「自分」の客観的存在に対して自信を持てるのか、と自問してみると「絶対自信を持てる」とはどうにも答えられそうにはないと私は思ってしまう。

ということで。

「あなたが思う」ことで、結果世界のいろいろなところでいろいろな「自分」が生きていることになるかもしれないが、それで私はたぶん救われる。なぜなら、怖いことは「自分」がなくなることだから。そして、もし、私のどんなものの一部でも(例えば、研究、知識、哲学、考え、技術、経験、意志、目標、夢、習慣、etc.)引き継ぎたい、継承したい、まねたい、という人がどんな形でも登場したならば、私は幸せだと思う。またその人を通して「自分」というものを再確認できるとも思う。私の子供が「父親のようになりたい」と思ってくれればそれはそれですごく幸せだと思うが「父親のようにはなりたくない」と思っていたとしても父親を鏡として「自分」を見つけ、成長させることができると思う。そして当の本人が「俺は父親とは違う!」と思っていたってその「自分」は父親から影響を受けて形成されているに違いない。私もそうやって父親、母親を見てきたし、成長してきたと思う。私は父親のように几帳面ではないし、母親のように心が寛容でもない。しかし私は生物学的にも文化的にも父親母親の多くの部分を遺伝/継承しているのは間違いないことで、私の中には確かに父・母が生きている(気がする)(まあ、実際に両親とも生きているわけだけれども)。


* 過去の自分に言いたいこと、未来の自分に聞きたいこと

ここまで、私の「自分」に対する見方を記述してきて、改めて一つわかったことがある。私はどうも「自分」というものが過去、現在、未来と(半)永続的に続くものだと仮定して(信じて)いて、さらに(真の?今ちょうどこの瞬間の)「自分」は今この瞬間にしか存在していない、とどうも見ている(らしい)。通常二人称として使われる「あなた」を過去/未来の「自分」に対しても使っていて、つまり、(真の)「自分」は今ちょうどこの瞬間にしか存在していなくて、刻一刻と死んでは生まれ死んでは生まれている、とも解釈できなくもないとどうも考えている(らしい)。認知的な時間分解能が最小時間より長いため(そもそも時間が離散的だと考えれば)、あるいはこの世の時間的切り替わりが連続的だから、つい1秒前の「自分」もほんの1秒後の「自分」も今この瞬間の(真の)「自分」は「同一」の「自分」だと錯覚しているだけ、というようにもどうも考えている(らしい)。例えば、もし、私の感覚/認知能力が時間の最小単位(10の17乗分の1秒?)より速く処理できるものであるならもしかしたら瞬間的に未来のあるいは過去の「自分」と会話できるかもしれない。逆に言うと過去の「自分」は現在ちょうど今こうしてまさにこの文章をパソコンの前でタイプしている「自分」とは別の存在として認識しているし、別の言い方をすれば、記憶の中の過去の「自分」はその過去の「自分」を思い出している今現在の「自分」とは別の存在として考えている。つまり、時間軸を考えて「自分」を動的な変化物(であるけれどある種の定常状態を維持している系)と考えることで、本来主体を指し示すはずの「自分」という言葉を使いつつも実は主体ではなく客体として「自分」というモノを認識しているようである。

タイムトラベル系のSF映画や小説ではよくある話だが、この手の思考実験は「自分」というモノを客観的に捉える一つのきっかけになり得る(かもしれない)。例えば、明日、10年前の「自分」が会いに来るとして、1. 何を聞かれるか、2. それに対してどう答えるか。例えば、明日、10年後の「自分」に会いに行くとして、1. 何を聞きたいか、2. それに対して10年後の「自分」がどう答えるだろうか、と考えてみる。こういう思考実験を考えた時点ですでに、過去あるいは未来のある時点の「自分」というのは、今この瞬間の「自分」(主体)とは別物(客体)として認識しているのはどうも確かそうではある。ただ、全くの他人とは違って、ある程度(特に過去から会いに来た「自分」については)だいたいどういう質問がされるか、というのは想像できる(今の「自分」は10年前の「自分」を経験しているので)。もし本当に10年前の「自分」が来て質問するとしたら、おそらく「少なくともあと10年は生きられるんだね」とまず冒頭言うとは思う。続けて「この10年の間に未然に防ぐことが可能かもしれないと思われる最大の不幸を教えてほしい」と言うかもしれない。と今の「自分」が考えるのはもしかしたら、姉や先輩の死を経験したからかもしれない。あるいは東日本大震災の惨劇を目にしているからかもしれない。でも同時にそれは10年後の「自分」に聞きたいことでもある。そして現在の「自分」はどう答えるか?これは結構答えるのが難しいかもしれない。まず、10年前にそういったタイムトラベルを経験していないので10年前の「自分」が会いに来るということ自体ありえないのだが、もし会いに来たとしたら、もしかしたら教えることで現在の世界にパラドックスが起きるかもしれないし、パラレルワールドの考えでいくつも世界のタイムラインがあり得るとするなら起きないかもしれない。会いに来ている時点ですでに今の「自分」が経験した10年とは違う10年になるのは確実ではあるだろうけれど。たぶん慎重な現在の「自分」は、過去の「自分」に何かを教えることで現在の世界が変わるのかどうかをまず実験してみる、かもしれないし、変わることを恐れて何も教えない、かもしれない。もし過去の「自分」に何を教えても現在の世界に何の影響も起きないとするなら、知りうる限りのこの世の事件、災害について教えるかもしれないがその事実を知った場合は今現在の「自分」が経験した10年とは違う10年になるだろうことも伝えなければならないし、また今この「自分」が経験した10年の出来事がその過去から来た「自分」の未来になる保障はないし、未来の事実を知ったとしてその事実を変えることはできるのか、変えられないのかもわからない。変えられるとして変わった後にその後の未来がどうなるのかは今現在の「自分」には予想ができない。結局何かを教えることで未来が予想できなくなるなら結局何も教えないかもしれない...。たぶん未来の「自分」も同じように考えるとは思う。あるいは本当に情報を過去未来に送る技術が確立していたらまたその考えも変わっているかもしれない。さて。いずれにせよ、このように客観的に過去未来の「自分」の思考を考えて面白いと感じるのは過去の「自分」に一番聞かれると思ったこと、未来の「自分」に一番聞きたいと思ったことが「自分」についてのことではなかったということで、しかも、その質問には答えない!!という答え!!....なんとも面白い思考実験の結果である。このように考えて改めて思うのは、きっと「自分」にとって最も大事なのはつまり「自分」それ自体というよりも「(現在に至る過程、歴史なども含む)自分を取り巻く環境」なのではないか、と思うわけです。「自分」が「自分」たり得るのは「自分を取り巻く環境、歴史、コンテキスト」があってこそ、だと思うわけです。つまりは「もし世界から猫が消えたなら」...それは「猫だけがいなくなる」あるいは「世界だけが変わる」というよりも「猫に関わるすべての世界」を含めた「自分」も変わる、ということなのではないだろうか。

* 今一番言っておきたいこと

端的に言えば、世界から「自分」がなくならないように、言い換えれば、世界から「あなた」がなくならないように、言い換えれば、今この「自分」の形成に影響があっただろうすべての「あなた」のことに思い馳せながら、今この瞬間を切磋琢磨してできる限りがんばって生きていきたいと思う。

これが今この瞬間の「自分」の最後の言葉だと思う。

逆に言えば、いろいろな人が「自分」の中には生きていて、今の「自分」が存在できるのは「あなた」のおかげであると思っているし、この文脈で考えるならば、つまりは、いつの時代も今のこの気持ちを忘れないようにみんなに感謝しながらがんばって生きていけ、という未来の「自分」へのメッセージということかもしれない。あるいは、未来の「自分」、すなわち世界に散らばった「あなた」の中にある「自分」、つまりは間接的には「あなた」へのメッセージということなのかもしれない。そういうふうに考えてみるともしかしたら究極の自愛は他愛なのではないか、などという宗教じみたことを言うつもりはもうとうないし、そんな他愛ないことを他人に強要するするつもりもさらさらない。ただ、大学院の先輩の葬儀の帰りに当時指導してもらっていた先生の言った言葉が印象的で、ここに書かれている「自分」の考え方に少なからず影響を与えた言葉だと思うので、その言葉も書いておくことにする。その言葉とは、

「人が人を人たらしめている」

「人らしさ」というのは何か、というのは実は難しい問題だが、この言葉の裏に隠れている確かなことの一つは、つまり今の「自分」の人格、身体が形成されて、今の生活が送れているのはまぎれもなく「自分以外」の人がなんらかの形で生きて、生まれたときから今の今まで「自分」に影響を及ぼしている(いた)から、ということではないかと思う。野菜を作る人、スーパーでものを売る人、レストランで働く人、勉強を教えてくれる人、ニュースを報道してくる人、、、などなど日常生活を送るだけでも過去現在未来の「自分」に直接的間接的に関係している人の数は果てしない。いつもきれいな水が飲めたり、お風呂に入れたり、面白い映画を見れたり、すぐに温かいご飯を食べれたり、そんな当たり前のようなことができるためにはどれだけの人が働いているのか、想像もできない。関係性が遠くなるほど、その存在を忘れがちだが、多くの人の人生が「自分」の人生にはつながっているのは確かなこと。ご飯を食べる前には、農家の人や米粒に感謝しろ、とか、先祖を敬え、とかそういうことを言いたい訳ではなく、つまりは、うれしいことも、楽しいことも、悲しいことも、つらいことも、悔しいことも、たいがいは人との関係の中で生まれるのではないか。その人生が良かったか、悪かったかも、たいがいは人との関係の中で決まるのではないだろうか、と私は思うわけです。また「自分らしさ」というのも「自分以外」の人がいることによって初めて認識できるもので、「自分以外」の人がいるからこそ、その対比から「自分らしさ」というものが生まれるのだと私は思うわけです。つまり、「自分」を「自分」たらしめているのは実は「自分」なのではなくむしろ「あなた」であると私は思うわけです。もっと言えば「あなた」との関係性こそが「自分」を「自分」たらしめていると私は思うわけです。ここでいう「関係性」というのは何も知り合いだとか連絡を取り合う間柄だとかそういうことではなくて、間接的な経済的依存関係、友人知人の間接的つながり、文化/性格の比較/対比関係から、ありとあらゆる「関係性」を含んでいます。例えば「あなた」がこの遺言を読んだ時点で、この遺言を書いた人と読んだ人、という関係性が「私」と「あなた」の間に生まれています。世界の99.9999...%以上の人にはどうでもいいようなこんなことを決して見やすいとは言えない形でホームページ上でずらずら書き連ねられるこの「自分」は世界でも相当稀でしょうが、でもそれが結果として「あなた」との対比から「私らしさ」になっているんじゃないでしょうか。こんな遺言を書く人もたぶん世界で唯一、私くらいなもんでしょう。つまり、私がいまこうして「人として」「人らしく」「私らしく」生きていけているのは「あなた」が「人として」「人らしく」「あなたらしく」私に接してくれている(いた)からだと私は思うわけです。まだ生きている方、既に他界された方、含めて。

* 死ぬ間際に言いたいこと

そしてもし死ぬ間際にラオウのように拳を天に向けて心の底から「我が生涯に一片の悔いなし!」と言えたら、それは本当に最高かもしれない。なかなか難しいかもしれないが、できるだけそう言えるように、今この瞬間にこの「自分」にできる限りのことはしておきたい、と思う。ただし、そう言えるためには一人でがむしゃらにがんばってもだめで、人との関係の中で努力する必要がある、のではないかと漠然と思う。ケンシロウやトキがいたからこそ、きっと彼は昇天できたのでしょう。たとえ、それが戦いでもあっても、助け合いであっても、競争であっても、協力であってもいいのかもしれない。そういった人同士との関わり合いのプロセスを通して、「自分」を見つめ、人を見つめ、「自分」を成長させ、人を成長させて、人生が成熟していく、のかもしれない。「切磋琢磨」という言葉は中学生のときに初恋の人に教わって初めて知って好きになった言葉の一つだが、使っている間に言葉の意味が「自分」の中で変化してきた。これは単に「がんばる」ということだけを意味しているのではなく、その言葉の奥にはそういった人との関係の中で何か物事を行うプロセスの見方について言及している、ような気がする。

昨今、世の中「勝ち組」だとか「負け組」だとか競争社会と言われて久しく、仕事でも研究でも教育でも結果を重視されることが多いが、人生全体から見たとき、つまり他人との比較ではなく「自分」との比較において、重要なのは結果よりもむしろプロセスの方だと私は思っている。たとえ、失敗したとしても、良い結果が出なかったとしても、その失敗を出すまでにやったこと、努力したこと、経験したこと、身につけたことは次のステップでは必ず活きてくる。氷山の一角ではないが、結果に現れてこないたくさんのことが結果に向けた「過程」の中で生まれているはず。「自分」が意識できるもの意識できないものも含めて。たとえ、成績で100点取ろうが0点取ろうが、そのテストに向けてやった行動、経験、身につけた知識、能力が「自分」を成長させる、次の「自分」にしてくれるものになる。いい点数を取ることも大事だろうが、それは人生全体から見たら大したことではない。それよりも大事なのは、なぜ今この「自分」はそれをするのか/したいのか/したのか、どのように「自分」はそれをするつもりなのか/したいのか/したのか、今この「自分」は何のために誰のために何をどういうふうにどれだけやればいいのか、「自分」は何のために誰のために何をどういうふうにどれだけやってその結果になったのか、そういったことを考えること、意識すること、考えながら(でもときにははっきり答えの出ないまま)実行すること、その作業自体、そのプロセスが「自分」を成長させるのではないか、と私は思う。そういうことは先生や誰かに教えてもらうものでもない。「自分」自身で考えて、見つけるものだと私は思う。そういうことを何も深く考えずにただ先生に言われたから、親に言われたから、友達が同じようにやっているから、というような理由でテストの範囲を丸暗記していい点数を取ったところで、将来ほとんど役に立たない。もちろん知識は増え、暗記力は多少向上するかもしれないが、「自分」の成長という面から見たら、それは些細なことでしかない、と私は思う。何かの哲学や方向性、目的、目標やビジョンの上に、「自分」の意思決定があってはじめてそういった暗記ものの知識が人生の役に立つのではないだろうか。結果的に、表面的な目的を達成できなくても、悔しい思いをしたとしても、「自分」の中で「自分」が変わっていると今この「自分」が実感できていれば、それが「成果」であると、私は思う。テストの点数が「自分」を成長させるのではない。もちろん世間一般的な成功体験も自信をつけるという意味でときには必要かもしれないが。点数が低いことで子供をしかったりはしたくはない。そもそもテストとは何なのか、なぜテストをするのか、テストをする目的は何か、テストで点数を取ることで良いこと、悪いことは何なのか、他にもっと多面的で良い評価方法はないのか、そもそも学校の評価システムそのものの良い点は/欠陥はなにか、そういったメタな視点を持てること、そういったことを「自分」で考えられるように(自発的に考えられるように)、あるいはそういう疑問を自然と抱くようなになってくれたらいい、と思う。そういう思案の上に何をどれだけどういうふうにやったのか/やらなかったのか、何をやるのか/やらないのか、と考えられるようになってもらいたいと思う。誰かにパッと答えを聞いて終わりではなく、「自分」なりの答えを考え続けられるようになってもらいたい。無論それはそのまま将来(文章を書き終わって10の17乗分の1秒後から)の「自分」宛のメッセージでもある。

そして、もし死ぬ間際に意識があったなら「できる限りのことはやった」「これ以上は自分の能力では無理だった」と言えるようになっていればこの「自分」としては上々だと思う。かといって、闇雲にがんばってもしょうがないし、健康にも良くない。人生はときに長距離マラソンのようなものでリズムが大事だし、ゴールに向かって単調でも一歩一歩確実に進み続けること、時には休養も大事だと思う。目標を定めて、規則正しい生活と習慣を維持して生きたい。アルジャーノンのチャーリーではないが、今は日々「自分」の能力が衰退しているのが(まだかろうじて?)「自分」で理解できる。もう二十歳の頃のように徹夜で寝ないでそのまま仕事、飲み会、とかそういうのは絶対に無理だし、ジャンプ力、瞬発力、持久力、視力、集中力、記憶力、聴力など体力的精神的な基礎身体能力は全盛期に比べて衰えている。17000Hz以上のモスキート音はもう聞こえないし、中学生相手のバスケットでも走り負ける自信はある。知識や技能は増えているので、仕事ができる能力は増している感じはするが、それもいずれ時代の発展と基礎身体能力の減衰とともに逆転する日も来るに違いない。いずれ「自分」の能力が衰退していると理解できないくらい「自分」の理解力が衰退する時期も来るかもしれない。それならば、なおのこと、「今」この「自分」にできることが人生で最高にできることだと思って一日一日悔いなく精進していきたい。万が一、病気や怪我で身体や脳が今まで通りに動かなくなったとしても「これまで自分はできる限りのことはやってきた」と思える状態でいたい。もちろんその後も死ぬまで「自分」にできる分だけできる限りやり続けるつもりだが。裏を返せば「明日やればいいや」「後でやればいい」とかではなく「今できることは今できるなら今やっておきたい」と常に思いたい。その積み重ねが「できる限りのことはやってきた」につながると信じている。つまりは「いつやるの?今でしょ。」ということです。結果として、ダーウィンさんの「種の起原」や木村さんの「分子進化の中立説」のような、何か生命に関する法則の発見や提案ができれば、生命の起源を考える研究者としては申し分ない人生であるだろう、などという大それたことを言うのは夢の中だけにしておいて、現実的には日々今の「自分」にできることを、できる分だけ、コツコツと一つ一つ一歩一歩、やっていきたいと思う。つらい苦しいと思うことも時にはあるかもしれないが、次の新しい「自分」を夢見ながらその過程を大いに楽しみたいとも思う。

* 人生の目的とは

しかし、生命に関する法則の発見などというのは実は単なる便宜上の目標であって、私の真の人生の目的はその目標に向かって切磋琢磨していくプロセスの中に隠されている、と最近は思うようになっている。それがなんだか明確に言うことはできないのだが。それは単に「生きててよかった」とか「ああ、このために自分は生きていたのか」と思えるような瞬間に出会いたい、というようなものでもない(もちろんそういう体験ができるに越したことはないが)。よく言われるように「子供のため」「家族のため」「愛する者のため」といったことでもない(もちろん愛する者のため、家族のために生きている、というのは間違っていはいないのだが)。一生のうちに見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない、はたまた「○○のため」などというふうに単純に言葉で表現できるものなのか、そうでないのか、人間の知能・感覚で認識可能なものなのか、そうでないのかもわからない。ある意味、One Piece を探す宝探しの冒険のようでもあり、禅問答のようでもあり、問題自体が自己言及している。つまり、端的に言えば、人生の真の目的を探すのが人生の目的になっているのだが、言葉で言う以上に問題は複雑で、その問題構造は生命の起源にも通じるものがあると思っているし、今はそれを考えながら生きていくことが面白くもある。つまり、生命の法則を見つけることや論文を書くことなどを達成することよりも、その達成に向けて「どう考えるか」「どう進めるか」「どう生きるか」といったプロセス自体を考えながら、かつ考えながら同時にそれに伴う具体的な作業一つ一つを大事に丁寧に行なうことが「自分」にとっては価値のあるものだと信じている。なぜならそのプロセスの中に、結果として現れるもの以上の大事な何かが含まれていると思っているから。それはつまりその作業、行動の一つ一つこそが「自分」の歴史になり、「自分」の環境になり、「自分」のコンテキストになり、「自分」が「自分」として今この環境で存在するために必要な行為であると思うから、だと思うわけです(たぶん)。つまりは、プロセスを考えるプロセスなんてものを考えると自己言及して果てしなく続くが、比喩的に言えば、その果てしない自己言及の先に、いわば人生の One Piece が眠っていると信じている。ジンが最終回で面白いことを言っていた「道草を楽しめ、大いにな。ほしいものより大切なものがきっとそっちにころがってる」と。まあ、つまりは、生命に関する法則なんてものよりも大切なものが生命に関する法則を考える過程で見つかると思っていて、それがなんだかはっきりとは今は言えないがきっとそれは自己言及的に生命に関する法則にも関連しているはずとも思っていて、それを探すのが人生の真の目的になっているのかもしれない。まあ、死ぬ直前までに意識できるものになっていればいいとも思っている。

「人生の目的」とは、言い換えれば「自分の目的」とも言える。つまりは「自分の目的とは何か」と考えることはすなわち「自分とは何か」と考えることにつながっている。しかし、実は「自分」というものを完全に認識(定義)するのは難しい。これまで散々「自分」という言葉を使ってきたが、我々は「自分」か「自分でない」かを直感的には理解できているつもりでいるのだが、では「自分とは何か」と聞かれると答えるのは難しい。もちろん物質的な身体を見るには鏡に映せばいいのだが、「自分」の考え、思考、記憶、経験、知識、能力、意志、感情、などを全部含めた「これが自分だ」というものを「ぱっ」と鏡のように映し出す道具や機械はない。それは上で述べたようにもしかしたら「他から完全に独立したものではないから」かもしれない。たとえば、論文や著書、日記やブログ、過去の写真や映像、日頃の生活行動を通して「その人となり」がわかるし、一部をわかった気にはなれるが、なにか具体的なものをさして「これが自分だ」と言うのは難しい。つまり、そうすると日々の行動一つ一つの積み重ねが「自分」を形成していると考えるのが自然だと思えてくる。別の表現で簡単に言えば、その人の「生き様」が「自分」を作り上げていると言えるのではないだろうか。いや、もしかしたら逆かもしれない。「自分」の表現型が「行動」として現れている、だけのかもしれない。単に「行動」そのものが「自分」を表しているということではなく、「行動」の裏側(大元に)に「自分」の存在が隠れている、というふうにも思える。分子生物学のアナロジーで考えると表現型として「行動」があり、それに対する遺伝子型として「自分」があるのではないか。けれども同時に「行動」自体がまた「自分」(の形成)に影響を与えているようにも思える(self-epigenetics?)。いずれにせよ、そういうふうに考えてみると、人生で「何をするか」「何をしたか」というような達成目標や結果そのもの自体よりはむしろ、そういった目標に向けて「どうするか」「どう行動するか」「どう考えるか」「どう生きるか」というプロセス、あるいは「どう考えて」「どう行動して」「どうやって」「どう生きて」その結果になったのかというプロセスの方が「自分」を作り上げるのには大事なのではないか、と思えてくる。もしかしたら逆で「自分」を作り上げる過程そのものが「生き様」になるのかもしれない。そういうふうに考えてみると、日々の一つ一つの行動を通して「自分」と向き合うことができる、のではないだろうか、とも思えてくる。むしろ、そうすることでしか「自分」を見る方法はないのではないか、とすら思える。

* 自分を見るということは

例えば、朝眠いときに「あー眠い、起きたくない」と思えばそれが「自分」である。思わないようにと思っても思ってしまうのが「自分」ということになる。良くも悪くも?「自分」にだけは嘘がつけないので正直に正面からガチンコで?向かい合うことになる。そこで例えば「毎朝なかなか起きれないのが自分」だと「自分」の一部の特徴を客観視(客体化)することが可能になる。鏡に向かって「あなたは何?」と質問したって「自分とは何か」の答えが返ってくる訳でもない。つまり、「自分」の行なった行動(過去の経験)を振り返り(思い出し)、それを客観的(自分とは別のモノとして)に評価する、というプロセス、一言で言えば「内省する」ことが「自分」の一部を見る、あるいは「自分」と向き合うことができる一つの方法であると言えるのではないか。ある人がどういう人かと判断するときは普通その人の「行動」を観察して「たぶんこの人はこういう性格の人なんじゃないのかなぁ」と考えるように。それと同じように「『自分』の行動を観察」して「『自分』はどういう性格の人か」と考える。もちろん、そんなこと言われなくても「自分のことは自分が一番良く知っている」という人もいるかもしれない。ただここで強調したいことの一つは観察する「自分」と観察されている『自分』がいて「自分」の分離が生じていること。つまり、これが『自分』を客観視する、ということである、と私は思う。実際には観察するモノ(主体)は「今現在の自分の意識」で、観察されるモノ(客体)は「(自分の記憶の中にある)過去の自分が行なった行動」ということになる、と思う。単に身体を動かす行為だけではなくて、その行動とともに考えたこと、意識したこと、感情なども全部含めて。もしかしたら「自分(の行動)」を客体化した時点でそれはもはや本来の「自分」ではない、という人もいるかもしれない。ただ、ここで一つ強調したいことは「自分」の行動を観察するときに他の人の行動では観察できない特別なものがある。「感情」「意識」「欲」といった実際には目に見えない(ビデオで録画できない、言葉や絵や音や数式で完全には表現不可能な)心的な「自分」の内部状態を観察することができることである。「眠い」「お腹が減った」「おいしい」「悲しい」「うれしい」「あの人が好きだ」「自分とはなんなんだーうだうだ」というような「思い」や「考え」。もちろん完全にその時の「感情」を再現する(記憶を呼び起こす)のはなかなか難しいのだけれども、あのときああしておけば良かったというような後悔の念、がんばってがんばってある目標が達成できたときのうれしさ、がんばってがんばってでも失敗したときの悔しさ、恋をしたときの好きだーという胸がドキドキする思い、大切な人を失ったときの悲しみ、などなど、言葉や映像で表現できないけれども私たちはその感情を記憶しておくことができて、そこに至った過程を省みることができる。たいていはそういった「自分」の心的状態のみだけでなく、その状態になった原因、「自分」を含む環境、状況、コンテキストを含めて、想起されることになるでしょう。もしその場に「あなた」がいたなら「自分」から見た(感じた)「あなた」の思い、感情、心的状態を含めたものが「自分」の内部状態として記憶されることになると思う。つまり「自分」を見る、ということは、「自分」を含む環境、状況を見ている、ということになるのではないだろうか。よく就職活動で「自己分析」というのがあるが、これも似たような行動だと思う。例えば「自分は何が好きか」「自分は何がやりたいか」という質問はいわば「過去の自分の行動(経験・記憶)とそれを含む状況を参照している行為」だと私は思う。

* 自分を作るということは

こういうふうに「自分」を眺める習慣を持つようになると、今度は何か行動を起こす前に「それはどういう状況で、次にどう行動しようか、どう行動するのが自分らしいか」などと思うようになってくる。何かを実現するための方法を考える場合、例えば「明日は早く起きよう」そのためにはどうしたらいいのか、例えば「目覚ましを3個セットしよう」「早めに寝よう」「すぐ寝れるように適度に運動をしよう」「習慣化させるために寝る起きる時間をきっちり決めよう」といった方法を考えて、実行したりする。そういった方法を考えて実行するには「毎朝なかなか起きれないのが自分」と「自分」の一部の特徴を客観的に認めた上で「起きたくない」と思っている「自分」の行動を「起きなくては」と思っている別の『自分』が意識的にその行動を変化させないと実現できないことで、やはり「自分」というものの一部を客体化させて、その特徴を客観視あるいは行動をコントロールしていることになると言えるのではないか。つまり「自分の行なった行動、状況を振り返り、それを客観的に評価して、次の自分の行動をコントロールする」という行動が「自分」を見るということであり、「自分」を形成するということになり、「自分」の生き様になり、聞こえよく言えば「自分」を成長させる、ことになるのではないだろうか。

その結果「自分」の能力が向上すること、例えば、仕事が効率よくできるようになったとか、人付き合いが上手になったとか、英語が話せるようになったとか、数学の問題が解けるようになったとか、バスケットが上手になったとか、そういうことは「自分」を形成するプロセスの結果でしかない、と考えている(もちろんそういう目に見えてわかる能力向上は人生を楽しくするだろうけれども)。「自分(の形成)」にとって大事なことはそこに至までの過程の中にあると私は思う。単に効率の良いやり方ができるかどうかというような意味ではない。なかなかうまく行かないなぁどうしたらいいのかなぁ、と悩んだり、あれだけがんばったのにどうして失敗したのかと悔しい思いをしたり、なるほどガッテン!これがそういうことだったのか!とアハ体験をしたり、大概は何か「自分以外」の人が関係している状況の中で悩んだり、よろこんだり、悲しんだり、教えてもらったり、助けたり助けられたり、時には競争したり、勝ったり負けたり、成功も失敗も喜びも悲しみもそういう一つ一つの経験の積み重ねが「自分」を作っていくのではなかろうか。あるいは「自分の環境」を作って行くのではないだろうか。もちろん単に経験すれば良いということでもない。何かの行動を伴いながら「自分」を省みながら、「自分」を取り巻く環境、周囲の人や状況を省みながら、未来を指向しながら、ああだこうだとうだうだ思考しながら、何をどう、どれくらい、どうやって、何のために、どの状況で、誰とどのように、進めていけばいいのか、進んできたのか、と考え続けながら悩み続けながら行動しながら生きていく過程すべてがつまり、「自分」を作る、ということであると考えるようになってきた(ような気がしないでもない)。すなわち、どのように「自分」を作るにしても結局は「自分」一人では、何も始まらないし、始められないのではないだろうか。ちなみに「花子とアン」は一度も見たことがないが絢香さんの歌の「ひとつひとつがあなたになる」というフレーズはとても気に入っている。

* 「自分」を観察している『自分』を観察する

さらに、上述の「自分の行なった行動を振り返り、それを客観的に評価する」というプロセスを私はどうやって考えたのか。それはここで「自分」と向き合う方法はどういうものがあるか、と考えたことがきっかけで、一度書いた「あー眠い、起きたくない」という例題を読み返してもう一度、これを考えるに至ったプロセスはいったいどういうプロセスだったなのかと客観的に考え直した結果であり、その「考え直した」という行為を客観的にまとめ直すと、やはり「自分の行なった行動(この文章を書いたという行為)を振り返り(文章を読み返し)、それを客観的に評価する(今現在この「自分」が行なっている行動/思考とは別のものとして何であったかともう一度考え直した)」ことをしたわけである。この「自分の行動を振り返り、それを客観的に評価する」というプロセスは実は自己言及的に永遠に作用させることが可能であるのだが、一旦ここでその自己言及プロセスを止めて、メタな視点(行為そのものではなくて行為の本質を眺める感じで?専門的には汎化させる視点)からそのプロセスを客観的にもう一度考え直してみると、確かに今言えることは少なくとも「「「プロセスを考える」そのプロセスを考える」というプロセスを通して「自分」というものを見ようとしているのが今この『自分』である」と「自分」の一部の特徴を客観視することはできそうだと言えそうではある、かもしれない。で、そんなことをして結局「自分」というものが何かわかったのか、と聞かれてもやはり答えは「一部はわかった気がするが一言で言うことは難しい」としか言えない。つまり、たとえ「自分とは何か」を知る手段がわかったとしても「自分とは何か」という質問に「これだ」と答えることはやはり難しい気がする(「自分」の特徴をひたすら列挙することは可能だと思うが)。

さて。

* 最後に

ここまでの考えをまとめてみると、つまり、

これまで形成されたきた「自分」の歴史(人生)を振り返ってみて、いろいろな出来事、行動、プロセス、「あなた」との関わり合いのすべてを思い出しながら客観的に考え直してみると、もし「あなた」が私つまり今この瞬間にこの文章を書いている「自分」と同じような価値観を持っていると仮定するなら、もしかしたら、日々の一つ一つの行動を通して「自分」を見つめ、「自分」を成長させることが「あなた」の存在意義、しいては「自分」の存在意義を証明することにつながり、そしてそうすることがここまで「自分」を成長させてくれた「あなた」への感謝にもなり「自分」の幸せにもなるような気がする。つまりは、「自分」の形成過程、言い換えれば「自分」の生き様そのものが「あなた」への遺言になるのかもしれない。そうだとするともしかしたら北の国からの黒板五郎さんが最後に言っているように「遺すべきものはもう遺した気がする、遺すべきものは伝えた気がする」と人生の最後に「あなた」に言えるようになることが人生の目標である、ような気がしないでもない。もちろんただ言うだけじゃなくて、心の底からそう言えるようになっている、ということはそのときには「自分」とは何か、うすうす考えがまとまっていて、おそらく「自分」がどういう人間であるかというのがある程度確立されていて、それに基づいて行動、思考し、人との関わり合いの中で様々なことを行なってきた経験がある、ということの裏返しでもあるのじゃないかとうすうす想像はしている(実際にそのときになってみないとわからないが)。もしかしたら「自分」の存在意義を「自分」に対して証明することが「自分の目的」なのかもしれないが、そうでないかもしれない。とは言っても「自分」の存在意義を「自分(だけ)」で証明することは難しく「あなた」の存在が必要なのじゃないか、と今のところ私は思っている。というのも普通、何かの「存在意義(価値)」というのは、その対象物以外からの評価や依存性によって決まると思うから。まあその答えは今後の「自分」に託すことにする。もし死ぬときまでに答えが出なかった場合は「あなた」の中の「私」がその答えを見つけてくれることを期待したい。ちなみに、そもそも「自分」というものが存在しているかどうか、という存在証明についての判断は「あなた」に任せることにしましょう。「あなた思えば我あり」ということで(実際のところ、映画マトリックスのように「自分」が客観的世界に実在しているかどうか、という判断は実は主観的世界の「自分」には難しく、その主観的世界の外側からの視点が必要だと思う訳です。ネオは薬を飲んでマトリックスから出なければマトリックスの外の「自分」の実体を認識することはできなかったでしょう。しかし現実的には幽体離脱でもできないかぎり、今この「自分」は永遠に主観的世界から抜け出せないという事実があるので「自分」が「自分」の客観的存在を直接証明することは不可能だと思うわけです)。

まあしかし、そんな他愛ないことをあーだこーだとうだうだ考えながら生きていけている時点ですでに、十分幸せだと思えているし、少なくともそんなことをゆっくりゆっくり考えられる余裕がある「自分」は約70億の地球人の中ではかなり幸せな方だと思うし、「自分」勝手にここまで楽しく幸せに生きてこれたのも多かれ少なかれ「あなた」のおかげであるのは確かなことだと私は思っている。

もし本当に私が死んだら「そういえば・・・」と良い噂でも悪い噂でも思い出してもらえたらうれしい。まあ、悪口を言いたい人ならば、思い出したくもないかもしれないが、なんにしても思い出すたびにそこで生きている「私」が「ありがとう」と感謝すると思う。そして、これを読み、もし「そうか、あいつもスイスでがんばっている(いた)のか、じゃ「自分」もちょっとがんばってみるか」と「あなた」の心にリフレクトしたなら今の私にとってこれ以上の喜びはないと思う。それがまた世の中を循環して「自分」をがんばって生かせてくれる糧になる。のじゃないか、という気がしないでもない気がしているような気もする。

2012.12.10 Zurich Masa

追記1:

この文章自体の今の私にとっての価値は単なる自己満足以外の何ものでもないですが、その価値は文章の内容そのものというよりはやはり文章を書く過程(プロセス)自体にあったと思います。つまり、書く過程を通して自分のこと、人生のこと、これまで会ってきた人々のこと、もう会えない人々のことを考えることを通して、逆に自分にとって今一番大事な事、大事な人、今一番自分がなすべきことが何かを再認識できたと思います。それは「今一番すべき事は何か」「今一番大事なものは何か」と直接自分に問いてもなかなか実感できるものでもない気がします。「もし明日死んだら」と想像する事で、逆に今日、今その瞬間を生きるために本当に必要なものが何かを考えることができるではないかと思えます。この考え方は「自分とは何か」という質問にも同様に適用可能で、「自分」だけについて考えていては「自分」というものが見えてきませんが「自分以外」の存在を考えて初めてその対比から「自分」の存在が見えてくると思うのです。遺言についても同様に考えてみると、文字通り誰かに「遺」す「言」葉、つまり「自分以外」の人のことを想って考える「自分以外」の人のための言葉であるのかもしれませんが、それと同時に「自分」が今を生きるための言葉にもなるのではないでしょうか。それと同時に、もしかしたらそれが間接的に「あなた」が今を生きるための言葉、にもつながるのかもしれません。むしろ、そうなることが私の最終的な願いであるような気がしないでもない気がするようになってきた気もします。

追記2:

少し哲学的(宗教的、思想的)なことについて。というより忘れっぽい将来の自分に向けての覚え書き?ここで書かれていることは発達心理学的にはおおよそ「自己同一性」とか「自我同一性」「セルフアイデンティティ」とか言われるものの確立に関わる問題だと思っています。と、それとは別に哲学の分野で「私はなぜ私なのか」とか言われるいわゆる「意識の超難問」ついての私なりのとりあえずの解答はこうです。「なぜ私はあなたではなく私なのか」というような疑問をもてるのは、1. 自己同一性が確立された後の話であって、2. 「私」と「あなた」が独立している、という前提があって初めて問える質問で、極端な話、たとえば、脳に直接ケーブルを接続して物理的に別々の身体の私とあなたが意識を共有できる装置ができたとすると、私とあなたは同一の記憶と思考を共有して、おそらく「私はなぜ私なのか」の「私」が変化してしまう、と考えています。この考えを拡張して、もしすべての世界の生き物すべてが連結したら...もはや「私はなぜ私なのか」とか言っている場合ではなくなってしまって、むしろ「私はあなた?いやいや私は私でしょう?」とか言いたくなりそうです。そこではもはや「私」と「あなた」の区別がなくなり、過去の「私」「あなた」としてのアイデンティティが保てなくなり「今この私」の存在を問い直す必要性が出てくると考えています。つまり、DNAも記憶も思考も全く同一のクローンができても、できた瞬間に別の思考プロセス(経験)が始まるのであれば、それらは別々の自我を確立するでしょうし、もし無線かテレパシーかなにかで脳が連結していて思考プロセスが共有されているとするとそれらのクローンは一つの自我を構築できる(かもしれない)かのように思えます。つまり、これらのことは「自分と自分以外が完全に独立したものではない」という考え方をもつと「私はなぜ私なのか」と問えなくなる、ということを意味します。ここで書かれている見方はいわゆる相対主義的とか言われる考え方に近く「自分」というものの存在を「それ以外」のものとの相対的な関係性によって認識しようと考えています。「自分の顔や姿は鏡に映すことによってわかる。同様に、人間は鏡としての他者をつうじて自己を知ることができる。」といったのはアメリカの社会学者チャールズクーリーさんで、私の考えもこれに近いと思います。あるいは「自分」を時間的に変化する動的なものととらえて過去の「自分」と現在(あるいは未来)の「自分」との相対的な違いから「自分」というものを認識しようと考えています。今まさに文章を考えて書いているのは自分自身であり動作/認知の主体そのものなのですが主観もしくは認知主体そのものをその主体自身がそのまま観察するというのは、観察するという行為自体が今現在の「自分」の状態を変化させてしまい自己言及的になって難しいことなので記憶の中のある瞬間の「自分」というものを、正確には「自分の行なった行為」を、客体化させて(観察対象として)間接的に「自分」というものを認識しようとしています。イギリスの哲学者ジュリアン・バジーニさんも非常にこれに近いことをTEDで話しています。「本当の自分」の見方、捉え方のモデルとして、固定した永続的なモノとして「自分」が存在するのではなく、実際に存在する様々事象(意識、経験、感情など)を統合するプロセスとして「自分」があるのだと。おそらく、もっと前に出ている社会心理学者/哲学者のジョージハーバードミードさんの自己の二つの側面、客観的自己と主体的自己についての話が私の考えに近い気もする。時間の最小単位が10の17乗分の1秒らしい(実際はプランク時間よりも遥かに長いらしい)のですがそれが仏教での時間の最小単位、刹那(10の18乗分の1)と近いことも非常に興味深いです。上座部仏教の一宗派である説一切有部では、人間の意識は一刹那の間に生成消滅(刹那消滅)を繰り返す心の相続運動であるとしているらしい(Wikipedia)。

あるいはここでの考え方は宮崎駿さんのナウシカで出てくる台詞「個にして全、全にして個」というような考え方に近いかもしれません。みんな大好き?!アバターのエイワにも似たようなコンセプトがあるのを見て取れます。かのシュレディンガーさんもこれに似た梵我一如の考えを支持していたそうです(Wikipedia)。文中で記述しているように「自分以外のものはすべて自分を構成する一部である」という表現は私の「自分」に対する考え方を端的にまとめています。別の言い方をすれば「この世界の存在なくして自分の存在はありえないし、自分の存在なくしてこの世界の存在もありえない(僕だけがいない街(世界)?!も別のタイムライン?!ではあるかもしれないが)」。常に世界と自分は相互依存関係にあって、いわば卵と鶏の関係にある。はてさて自分が先か世界が先か。もちろん客観的世界、この宇宙は私が生まれる約138億年前には誕生していたらしいし、138億年前にも宇宙の存在しない世界はあった?!に違いないし、たとえ私が明日死のうとも世の中は今日とほとんど変わらず回り続けるだろうけど...もし姉が生きている「世界」なら、もし先輩が生きている「世界」なら、今のこの「自分」はここには存在していない、と私は思う。死んでいるという意味ではなくて、生きて生活しているなら、今この「自分」とは別の「自分」であったと思う。この遺言さえ書かずにこうやって「自分」を省みることも、半生を振り返ることも一生しなかったかもしれない。

これは(たぶん)仏教や禅宗にも通じる考え方で(専門的に勉強したわけではないので確かではないですが)、全体と部分とを二元論的に分離して考える現代科学では自己言及的になってなじまない考え方ではあると思うのですが、それをなんとか近代科学の見方で解釈したい、というような思いが自分にはある気がします。全体=部分、という構造が集合論的に真になるのは唯一、部分集合が全体集合と一致する場合ですが、つまり記号で書くと、(x ⊆ S)∧(S ⊆ x)⇔x=S、という感じなわけですが、xが部分集合というよりはむしろ元(要素)であり、ここでは(x ∈ S)∧(S ∈ x)を成り立たせる場合とはどういう場合か、ということを考えようとしています。集合を構成する要素が、それを含む集合全体を要素とする集合?!はぁ?なんじゃそりゃ?と集合論的には矛盾(いわゆるラッセルのパラドックスのことですが)してますが、しかし、むしろ、そういう矛盾を発展(止揚)させていかなければ「生命」というものや「自分」というものをより深く認識することは難しいのではないかという思いが漠然とあるのかもしれません。通常、科学では因果律に基づき物事の因果性(causarity)を明らかにすることにより「現象を理解した」と解釈され「原因」と「結果」は二元論的に区別されますが、ところが禅では「因果一如」といって「原因」と「結果」は一つであり、同時に起こると考えているようです。より専門的にはZFCではなくNon-well founded set theoryを基礎とした数学理論が発展して、それが生命科学に応用される時代になるともしかしたらここら辺の疑問がもう少しすっきりするのかもしれない。あるいは「時間」の要素をいれた力学系理論を発展させることでもある程度この集合論的矛盾を解消できると考えています。「和をもって尊しとなせ」と言ったのはご存知聖徳太子(厩戸皇子?)で日本は古くから「全体」と「個」を融合する考え方に慣れ親しんできたに違いありません。ちなみにこの「和」というのは英語のsum(総和)ではなくて、harmony(調和)に近い意味だと個人的には考えています。合唱でもオーケストラでも一人一人の声、音色が調和して、一つ一つの声、楽器の音の単なる総和以上の何かを私たちは感じているから感動するのだと思います。孔子さん曰く、「和」とは自己の主体性を保ったまま協調すること、だと。アリストテレスさん曰く、全体は部分の総和以上の何か、だと。個を全体から分離して考える西洋哲学が近代科学の基礎の上にある現代で日本人こそが近代科学にブレークスルーをもたらす可能性を秘めているのではないでしょうか。

こういった考え方は特に大学院の過程で勉強した複雑系や力学系の考え方、もしくは現象学で言われる間主観性というものの考え方の影響も受けている気がします。プロセスを重視する考え方や行動から自分を分析するという発想は動物行動学や進化生態学などの勉強からも影響を受けている気がします。そのせいか、ものごとの本質、といったときに対象物の構成や構造そのものよりもその対象とそれを取り巻く環境(に存在する様々なもの)との関係性に着目する傾向が強くなりました。この宇宙のどこかで生命と呼ばれるものが誕生したときもきっとさまざまな物質の関係性の中でお互いの関係性が変化したはずで、もし生命誕生に関わる神の数式というものが発見されたときはきっと関係性の変化に関わる関係性を表しているのだろうと期待しています。ある意味生命の元となる絶対的な何が存在するとすれば、それは水だとか有機化合物とか生命を構成する構成物質(の性質)というよりは、それらをつなげる関係性であると私は考えています。つまり、もし生命と呼べる代物が人工的に構成できるなら、構成単位は水でも有機物でもなんでもよくて(むしろ具体的な物質である必要もないかもしれない)、何かはよくわからないけどそれらの要素の関係性が今の地球に現存する我々人間を含む生命と呼べるものが持っている関係性と同じであるんじゃなかろうか、と期待しています。その関係性の中でものごとの役割がなんらかの法則に従って自然と決定され(一見)安定した(ように見える)システムが構築されていくのではないか。こういった見方はいわゆる相対主義的と言われます。相対主義は科学や哲学の分野ではまま批判されることもありますが、ここでの考え方はいわゆる認識論的相対主義がいうように物事の真偽が人々の相対的な認識によって決定される、というよりは物事の機能や役割といったものが相互作用する物同士の関係性の中で動的に相対的に決定されていく、という意味で私がここで言いたい考え方というのは機能相対主義とでも名付けることができるかもしれません。そういった見方で人生を見ているので機能相対主義的動的人生観とでも言えるでしょうか。人の役割も同じような見方が可能だと思っていて人の社会の中での役割というのは生まれた瞬間に何か生得的に決まっている訳ではなくて、生きているうちに社会の中で相対的に決まって行く、または変化して行くのではないか、という思いがあります。人生の目的についても、神様や誰かが「あなたはこれこれのために生まれたのです」とか誰かに与えられたり、絶対的な目的が人が生まれる前から存在しているというよりは、生きて行く過程で人々との関係の中で自然と生じて、人それぞれが人生のあるときに「自分」というものを客観視できたときにフッと「自分」で気づくものではないではないか、という気がしないでもないような気がするのですがこれを今読んでいる「あなた」はどう思いますでしょうか?